薄くて大きな南関あげは、だしを吸うとふわっと膨らみます。
南関の歴史も、少しずつ知っていくと、何気ない町の景色がふわっと違って見えてきました。
今回訪ねたのは、熊本県玉名郡南関町にある「正勝寺(しょうしょうじ)」。
静かな町の中にある、歴史を感じるお寺です。
ところが、実際に歩いてみると、思いがけない歴史の跡が目に入ってきました。
「西南の役本営跡」の文字が
正勝寺へ向かうと、まず目に入るのが、石造りの門柱と、その先へ続く石畳です。

石畳の両側には古い石碑が並び、その先には立派な二層の山門が見えています。

さらに手前には「西南の役本営跡」と記された案内も。
「ここが西南戦争と関係のある場所なんだ」
そんなことを思いながら、石畳を歩いて山門へ向かいます。

南関町の音声ガイドによると、
正勝寺は室町時代に建てられたとされる、南関町の歴史あるお寺の一つとのことです。
立派な二層の山門

石畳を進んだ先に現れるのが、大きな二層の山門。

木の風合いが残る立派な門で、近くで見ると細かな装飾にも目を奪われます。

南関町の音声ガイドでは、この二層の山門や居室、
山門前の石畳が当時のまま残っていると紹介されています。

「当時のまま」と聞くと、ここを歩いていること自体が少し特別なことに感じられます。
そもそも、西南戦争って?
ここで気になったのが「西南の役」。
西南戦争は、明治10年(1877年)に起きた戦いです。
西郷隆盛を中心とする士族と、明治政府の間で戦闘が行われ、九州各地に戦火が広がりました。
約7か月にわたって戦闘が続いた、日本最後の大規模な内戦として知られています。
熊本もその舞台の一つになりました。

(西南戦争で焼け跡となった熊本市街。1877年、上野彦馬撮影/出典:Wikimedia Commons)
※この写真は正勝寺の写真ではなく、当時の熊本市街の様子を伝える歴史資料です。
そんな戦争と、ここ南関町の正勝寺がつながっているとは、訪れるまで知りませんでした。
「えっ、ここで皇族が指揮していたの?」
正勝寺について調べて、さらに驚いたのがここ。
明治10年の西南戦争の際、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、
この正勝寺に本営を置いたと南関町の音声ガイドに記されています。

有栖川宮熾仁親王は1835年に京都で生まれた皇族で、
幕末から明治にかけて政治や軍事の分野で活動した人物です。

戊辰戦争では東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となりました。
南関町の音声ガイドによると、
正勝寺を本営として、高瀬(現在の玉名市)方面や山鹿方面への出兵を指揮したとされています。
皇族が戦争の指揮を執っていたなんて、今の感覚からすると、ちょっと驚いてしまいます。
「本営」って、何?
ここで出てきた「本営」という言葉。

簡単にいうと、軍が指揮を行う拠点、司令部のような場所です。
つまり正勝寺は、戦場そのものだったというより、戦いに関する指揮を行う拠点になっていたということ。

改めて見ると、さっき歩いてきた石畳も、ただ古い道が残っているというだけではなく、
この場所の歴史を伝えるものだったんだと気づきます。
境内で目を引いた、大きなソテツ
歴史のことを知りながら境内を歩いていると、もう一つ目に入ったものがありました。
それが、大きなソテツ。

背が高く伸びたソテツはよく見かけますが、
こちらは横にも大きく広がっていて、かなりの存在感があります。
じっと眺めていると、

「この木は、ここでどんな時間を過ごしてきたんだろう」
なんて考えてしまいました。
南関を歩いてみて
正直、南関町について調べ始めた当初は、
「何があるんだろう?」という疑問からのスタートでした。
でも、実際に足を運んでみると、何気なく見えていた町の中にも、知らなかった歴史が残っています。

立派な山門を眺め、石畳を歩く。

そして、その場所がかつて西南戦争の本営だったことを知る。
最後には南関あげを買って帰る。
薄い南関あげが、だしを吸ってふわっと膨らむように、
町のことを知るほど、南関の景色も少しずつふくらんで見えてくる。
そんなことを感じた、今回の南関歩きでした。
記事シェア