戦前、全国に25カ所存在してた遊郭。
熊本では、熊本市西区二本木にあった「二本木遊郭」が有名ですが、知っていることといえば二本木に遊郭があったという事実だけ。一体どのような流れで二本木に遊郭ができたのか、また当時どのような生活だったのかを知っている方も少なくなってきています。
そこで資料に残っている情報を頼りに、と調査を進めるも、その情報自体、数が少ない!
そうなればやる事は1つ。
現場に行って手がかりをつかむ。これしかありません。
二本木遊郭の生い立ち
©河島書店
それまで野放しだった「私娼」を禁止し国が認めた「公娼」が生まれたのが1874年1月。
実は戦前、梅毒罹患率がもっとも高かったのがここ熊本だったんです。
それじゃいかんと公衆衛生の観点から現在の京町1丁目~2丁目界隈(裁判所あたり)にオフィシャルな遊郭を作ったのが始まりです。
公娼になれば鑑札(身分証明書のようなもの)や、検査の義務化なども行われていましたから、何も補償されない私娼でいるよりは、とメリットを感じる方もいたようです。
その後、西南戦争で焼失したことをうけ二本木にうつってきました。
そして皆さまご存じの二本木遊郭につながるのですが、1957年売春禁止法の成立により衰退し約80年の歴史の幕を閉じました。
当時はどんな生活だったの?
当時の様子を記した絵画。KABさんからお借りしました。
当時はどのような生活を送っていたのかを知っている人を探したところ、二本木生まれ二本木育ち。遊び場所は東雲楼だったという方に出会うことができたのでインタビューを行いました。
左から3番目、前列にいらっしゃるのが二本木在住 森さん。
お母様が遊郭で髪結いをしていたと(当時は出髪と呼ばれていたそう)関係で、幼い頃から遊郭に出入りしていた。
隆盛を誇っていた東雲楼。©河島書店
「まず、二本木遊郭の当時の雰囲気を教えていただけないでしょうか。」
「当時はたいそう賑わっとったよー。人通りがない時がないけん、鍵やらかけんでよかってくらい。」
現在は4か所、二本木に通じる橋がありますが、当時は足抜け防止のため三嬌橋しか二本木につながるルートはなく、いわゆる陸の孤島。
今は河川工事もされ非常に穏やかな白川ですが、当時は「暴れ川」とも呼ばれ水流も勢いがあったとのこと。現在の水流を見ても実際対岸まで泳ぎ切きれる自信はありません。
「橋のとこには、たいぎゃふとか門もあってね。時間になったら「ヤマイリマシター」って言いながら締めなはる。魚屋さんとか果物屋さんとかね、よー商売に来よんなはったよ。」
「今でいう街中みたいなもんですかね?」
「そうねー。あた「東雲ストライキ」って知っとんな?」
「はい。花岡山でのストライキですよね?あれは確か賃金とか待遇での…」
「そうそう。ばってんがね、あれは賃金て言うよっか、食いもんたい。どしこ頑張ったって当時のご飯はフダンソウひとつよ?」
どれだけ稼いでも、良くておひたしになる程度の食事内容だったとのこと。
「あるときね、髪結いしよった時に働いとった女の子が「ぶり大根なっと食いたか」って泣きよらしたったいね。当時うちはお弟子さんも住み込みだったけん、食料ならあったけんね。そっで母がお弟子さんに「今すぐ作ってやって」って。そして食べさせたらワンワン泣きよらしたの覚えとる。」
ぶり大根を食べながら何度も何度も泣きながら頭を下げていた、その姿を今でも鮮明と思い出せるそう。
「草しか食えんならきつかですね…。」
「そうたい!だけんね、魚屋やら総菜屋やらたいが二本木にきよったったい。二階から縄ば垂らしてこっそりと買いよらしたー。」
こんなエピソードも
当時の地図を再現したものを黒亭さんにお借りできました。
同じ二本木でもランクが違ったそうで、ちょうど黒亭さんが境目。有名な東雲楼や現旭タクシーがある清川がある上のほうを”上級”って呼んでいました。
上級は熊本出身者よりも、鹿児島や久留米、長崎の子が多かったのだとか。
河島書店さんの資料も確かに出身地は福岡、愛媛、長崎など県外の方が多く在籍していました。
ちょうど森さんのお母さんが、上級の遊郭で髪結いの仕事をしてたところ、1人の男が「娘を売りたい」と訪ねてきたそう。
珍しい光景ではなかったものの、さめざめと泣く少女はいつまでたっても見慣れたものではありません。
通例通り売買が成立すると、その父親は娘を売却したお金を握りしめ、違う店の遊郭に消えていってしまった、とのこと。
「ほんとロクでもねー親父たい。おかみさんもかわいそうに思って、その子はお店に出さずに手伝いをしてもらうごつなったもんね。」
また当時は毎日のように女の子が白川に身投げし、本山の鉄橋にご遺体があがっていました。
そこでかわいそうに思った5人のご主人勢が「せめて無縁仏でも」と「竹葉寺(ちくようじ)」というお寺を建てたそう。
現在は戦争で焼き払われ姿形もないのが残念です。
「だけん、よかご主人もおんなはったとよ。皆が皆悪い人ばっかじゃなかった。
ばってん東雲楼の中島さん(楼主)は、たーーいがケチやったもんね。まあ一代であがんふとか店作るなら、そがんなっとだろかねー」
知る事が供養になるのかもしれない
「遊郭ていうとね、確かにかわいそうな子が多かった。足抜け失敗して井戸に吊るされたりの折檻もたいぎゃ見てきたけんね。
ばってんね、悪かこつばっかじゃなかて私は思うよ。まず遊郭がなかったら、素人娘に手ば出したろね、と思う。その性犯罪から守っとらしたもん。
あと、毎週火曜と金曜に梅毒の検査もしよんなはったしね。遊郭に入れんかった人はそれすらできんけん。衣食住は確保されとったと思うとね。」
今なお残る赤レンガ。当時の病院跡なんだそう。
「とにかく子供だった自分には皆優しかったし、明るく接してくれよった」
どのような状況下でも子供だけは守るー。そのような覚悟と人情、そして優しさがあふれた町だったと語っていたのが印象的でした。
決して遠い過去ではないのに、戦争以上に知らなかった二本木遊郭の話。
近代の熊本の礎をまさに体をはって作った先人たち。そしてこのことをなかったことにせず”知る”こと。それが名もなき遊女たちの供養になるのではないでしょうか。
今回ご協力頂きました二本木町内会の皆さま、快く資料を貸してくださった河島書店様、KAB様、黒亭様、質問にお答えいただいた森様、熊本大学様。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
ライター紹介
ムトー
肥後ジャーナル編集長。 「人はなんで痩せなきゃいけないのかな」という思考にまで達したのでもうきっと痩せません。 気にしません。
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