「託麻」って聞いて、ぱっとイメージするのは東区の東端あたりの地域である方も多いかと思います。
託麻東、託麻西、託麻南、託麻北と小学校があるくらいですし、託麻出張所もありますよね。そこから西に行くと中央区に近い渡鹿などにも託麻原小学校や託麻原本通りがあり、結構広いエリアが「託麻」と呼ばれています。ですが、一つ物申したい。託麻中学校、なぜお前は南区にポツンといるのだと。その謎を調べてみました!
託麻と名の付く学校で託麻中学校だけ孤立している問題
みなさん、「託麻」と言われるとどの辺りをイメージしますか?
東区の東端辺りのエリアを指す地名で、住所的には存在しない場所なのですが、東区役所の託麻出張所があったり、
東西南北それぞれの託麻小学校があるんですけど、
南区出仲間にある「託麻中学校」。
何故か、ここだけ南区にぽつんと託麻があるんです。託麻と名の付く小学校は東区に集中しているのに、中学校は南区。
地図にするとこんな感じです。託麻中学だけは旧浜線と浜線バイパスの間くらい。もちろん、校区も違います。
なんでこんなに離れてしまったのでしょうか。
託麻中の近くで地元のおじいちゃんに聞いたら「この辺も託麻やったっばい。ようはしらん」と言われたので、近くを散策してみましたが、他に南区で託麻と名の付くところも見当たりません…。
明治時代の地図で「託麻」を見るとエグかった
ということで、昔のことは古い文献を漁るに越したことはありません。
そうして、図書館で見つけ出したのが古い地図。明治時代のものだそう。コピー品で文字は滲んでいるのちょっと見にくいですが、この地図によると、当時は「託麻郡」という群で、現在「託麻」と呼ばれている東区周辺から健軍村、神水村、中央区の大江村に、国府村などを経て、近見村、田迎村など南区方面にまで広がっています。
簡単に言うと、現在の熊本市の白川から東側、大部分の地域が「託麻郡」だったようです。
確かに「健軍村」と書いてあるのが読み取れます。
こっちは「近見村」とか「笛田村」「高江村」などありますね。今の地域名ってほとんど昔は村だったんだ…
当時はまだ熊本ではなく、肥後国の時代。明治29年に飽田郡と合併して飽託郡になるまでこのめちゃくちゃ広い範囲が「託麻」だったそうです。
現在の託麻地域は、飽託郡になった後、供合村、広畑村、小山戸島村が合併してできた託麻村があった場所。1970年までに熊本市に編入されるまでこの辺りは託麻村だったんです。
で、なぜ託麻中学校だけが南区方面で名前が残っているのでしょうか。
飽託郡になったのち、御幸村、田迎村で設立した学校らしいです。詳しいことは学校の記念史とか探してみましょうかね…。
託麻はかつて熊本市の一大エリアだった
なぜ託麻中学だけポツンと孤立しているのか。そんなことを調べていたら、明治時代まで白川より東側はほとんど託麻だったという事実が判明してしまいました。託麻中学校だけ残ったのには、地域の人の託麻への思いが強かったのかもしれませんね。
熊本市に住んでいる方も、ご先祖様は託麻の人だったかもしれません。
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