*
とじる
*
とじる
*
とじる

熊本県が明治時代に4年間だけ”白川県”だった時代があった

ライター:山田 山田
キーワード:

私達の住む熊本。肥後藩から熊本藩となり、熊本県になったという歴史はご存知の方も多いと思いますが、実は明治時代に4年間だけ「白川県」だった時代があったのはご存でしょうか?
いやいや何やねんそれ!と思い調べてみました!


分からないことは分かる人に聞けばいい

熊本県が「白川県」として存在したのは明治5年から明治9年の約4年間。当時のことを知る方に聞ければ一発ですが、明治9年生まれの方がご存命だったら、144歳。現実的ではありません。

熊本の歴史を調べてみるも、4年間だけの歴史ということで、記述のある資料も少なくどん詰り…。

ということで、手っ取り早く、知ってそうな人に聞きに行ってきました。

訪れたのは熊本大学。

文学部歴史学科で近代史を専門とされている三澤純先生の研究室にお伺いしました!!

廃藩置県後の新しい時代に向けた改名

三澤先生が教えてくれた本は「横島町史」。この本に先生が執筆した白川県についての記述があるそうです。

明治4年の廃藩置県の際に、熊本藩から熊本県になったのはなんとなく分かります。
三澤先生の話では、明治維新後、新しい時代に変わっていこう!という流れの中で、政府の意思で藩の時代の名前を冠する県名が全国的に改名された時期があったそうです。その時、その土地の象徴である山や川の名前がつけられることが多く、熊本でも旧藩名の「熊本」を捨て、「白川県」になってんだとか。

同時期に、人吉県に天草県が編入され、八代県が生まれ、明治6年に八代県が白川県に編入され、現在の熊本の形になったそうです。
八代も県だったんですね…。

こちらは明治時代最初に作られたという白川県の地図「白川県熊本全図」(現在の熊本市中心部)。西南戦争で戦火に包まれる前の市街地を記した地図で、現物はとても貴重で持ち出し厳禁といことで、「地図中心」という雑誌に掲載されたものを見せてもらいました。

県庁は現在の二本木あたり。白川沿いにあり、確かに「白川懸廳(県庁)」の文字が。

結局、約4年で熊本県に戻るわけですが、その明確な理由は残っていないらしいです。三澤先生の推測では「熊本市内の住民はともかく、他の地域の人たちには『白川』は馴染みが薄く、変更の要望が多かったのでは」ということでした。

白川県庁跡地に石碑があるらしい

三澤先生から二本木にある古町公園に、白川県庁に明治天皇がご訪問された際の石碑があると聞いて、早速確かめに行ってみました。

古町公園はこじんまりとした公園ですが、その一部に目的の石碑がありました。

看板によると、県庁は旧花畑邸→熊本城二の丸→二本木→古城と移転していったようです。

続いて、石碑を見てみましょう。「明治天皇臨幸碑」と書かれています。

……読めませんでした。

意外と知らない熊本の歴史

意外と知らない、熊本の歴史。150年ほど昔の話ですが、白川県だった時期が存在したり、八代も県だったりと驚きばかり…。
もし、歴史がちょっと違っていたら今もなお白川県だったかもしれません。
想像すると、なんだかワクワクしませんか?

白川県庁跡

住所

〒860-0051 熊本県熊本市西区二本木4丁目3

ライター紹介

山田

山田

肥後ジャーナル編集部の大きい人。前職は地域経済誌記者やマーケティングのディレクター。将来の夢はヒモになること。 特技は誤字脱字。朝起きるのが苦手です。

このライターが書いた他の記事

大津町にオープンした「肉酒場おんのや」で脂の旨味を感じる焼肉とこだわりの美酒を大満喫!

2023.07.09

くまモンの秘密基地!?3月19日「KUMAMON BASE」が肥後大津駅ビジターセンターにオープン

2023.03.18

スコップ1本でどれだけ深い穴が掘れるのか!川尻の「穴掘り大会」に出場してきた

2023.03.07

肥後ジャーナルをSNSでフォローする

肥後ジャーナル 編集部のおすすめ記事

PUBLIC RELATIONS

肥後ジャーナルをLINE@で友達追加!

右のQRコードをスマートフォンのカメラで読み込んで、肥後ジャーナルを LINE@で友達追加していただいた方には、新しく更新された記事をお知らせします。

肥後ジャーナルを LINE@で友達追加していただいた方には、新しく更新された記事をお知らせします。

qrコード

ID:@higojournal